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口先の真実

素人文章書きのずるずる日常。

言葉。

言葉とは記号である。
文章とは表現である。
語ることは知ることであり、
書くことは考えることである。

そも、獣とは「対話」という概念を持たないものである。
それは、意志の疎通は最低限で済み、「理解しあおう」とすらしないからである。
「私」が存在しないのだから「あなた」も存在しないのである。

幸福も不幸も知らないことは幸福であると思う。
相手のことを知ろうと思う心があることは不幸であると思う。

人は、言葉と言う記号を持ったばかりに、自分の持つ意志と、誰かの意志を繋げ合わせようと考え始めた。
そして、思考をすり合わせるため、自分の考えを知ってほしいという欲望のままに、文章という表現の手段を手に入れた。

人は、語ることで自分の願望を改めて知る。
口に出すまではただの現象であり、感情の一つでしかない。
言葉、という何らかの記号によって、自分自身の望むものを知ることになる。

人は、書くことで考える。
考えるために書き、書くために考える。
言葉を文章にすることで、自分の考えを形に残していく、それが、考えるということに繋がる。

しかし、そうやって言葉で、音で、思いで、心で繋がろうと努力しても、最後に行き着くところは、「人は互いに完全には理解しあうことは不可能」ということである。

人は完全に理解し合う、ということは不可能である。
言葉は、その意志を伝えるいちツールでしかない。
故に、言葉とは脆弱で無力なものである。

人はそれを理解したうえで、言葉の持つ威力も考慮しなければならない。
人は、その人の知るかぎりでの感情でしかその場の言葉の意味を図り知ることは出来ない。
誤解は、言葉の受け止め方一つで容易に生まれる。
言葉による破壊力は、言わずもがなである。
人の世界はほとんどが言葉で出来ている。
宗教も、政治も、プログラムも、そして、エンターテインメントも。

言葉による喜びは無上である。
それは人を突き動かすものである。
故に、言葉とは時に凶暴なものである。

言葉を使い、人と繋がりあいたいと願えば願うほど、人は孤独になっていく。
言葉を交わすたびに、相手が「私」ではなく、「あなた」であることを思い知るからだ。
個を知ることは必ずしも幸福ではない。
共同体において、無意識に「普通」であることを特別意識しないことが、幸福も不幸も知らない幸福である。
無知ということは幸せなことである。
しかし、知ることを怠る人間は人ではなく獣なのだ。

獣は、自分が自分ひとりであることを知らない。
生きる意味など考えもしない。
食べ、生き延び、子を成して種の繁栄に無意識のまま貢献するのが獣の獣たるゆえんである。

人はそれさえも選ぶ。
選択肢であると考える。
食べること、生きること、子を成すこと、総てがその「個」に許された選択肢の一つであると。

故に、人は常に孤独である。
ひとりとして「私」と同じものが無いと知っているから。

人は決定的に孤独である。

言葉とは無力である。
同時に、言葉とは凶器である。

人はその脆弱な凶器を、常に手元に持っていることを知らなければならない。








思いついたから書いてみただけ…
ちょっとテスト風味。(毒)
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2006.01.27[Fri] Post 11:17  CO:0  TB:0  雑記  Top▲

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